(今回は非オーディオです)

数回前に「シャーロックホーム全集を読むなら」という記事を書いた。(2021年11月1日)
2022年現在、読むべき全集は角川文庫版かネット上の「コンプリートシャーロックホームズ」だと書いた。その結論に変わりはないのだが(角川文庫版はやはり読みやすい)、自分自身は少し変わった方向に進んで行っている。

その話の前に、前回の記事で触れなかった文庫全集について拾遺集的に扱ってみたい。
前回は絶版ものも含めて6社(角川、新潮、ハヤカワミステリ、ちくま、光文社、創芸推理)取り上げた。
その他、文庫を出版している主要な出版社には講談社、集英社、小学館、文春、幻冬舎、河出書房新社、中央公論社、徳間書店などがあるが、このうちシャーロック・ホームズ全集として全編翻訳しているのは河出書房新社の河出文庫だけだ。

意外なことに二大出版社の講談社(音羽系)と小学館(一ツ橋系)本体の文庫には全集がない。まあ、小学館はもともと文芸系の文庫に力を入れていないが…
それでも講談社文庫の方は70年代から80年代の頭にかけて「緋色の研究」「四つの署名」「バスカヴィル家の犬」「冒険」「回想」「帰還」「最後の挨拶」7冊47篇を出版していた。(「事件簿」と「恐怖の谷」が未訳。この47篇を1冊にしたシャーロック・ホームズ大全という出版形態もあった)翻訳は鮎川信夫。

集英社文庫では傑作選という名前で1冊出している。
IMG20220116221522 - Edited
旧版の表紙 イラストは山下和美
傑作選というものの「冒険」の内半分の6編(ボヘミア王の醜聞、赤毛連盟、花婿の正体、六つのオレンジの種、唇のねじれた男、まだらの紐)を訳出したもので、なんとも中途半端。全部読みたい人にはお勧めできない。翻訳が中田耕治(アルフレッド・ベスター「虎よ!虎よ!」)なだけに惜しい。中田耕治による解説、コナン・ドイルの年譜。高橋克彦の鑑賞の手引き付き。これしか読まないのならよいかも知れない。(学校で指定図書にするような目的で編集された?)

全集を発行している河出文庫版は全9巻のハードカバーで出版されたものを文庫化したものである。
IMG20220116215552 - Edited
文庫版と単行本版(図書館で借りた)

本来かなり詳細な註釈が付いていたが、文庫化にあたり、大幅に削られた(後述)単行本版は入手困難だが文庫版は(書店になくても)河出書房新社のネットショップで購入可能である。←多分、近所の書店に頼めば取り寄せてくれる。電子書籍版もあるらしい。(セコハン市場で、高値で買う必要はない。ちなみに単行本版は全9巻セットで40,000円を超えている)
翻訳がシャーロッキアンの小林司、東山あかねである。新潮文庫の延原訳に敬意をはらいつつ、独自の見解で翻訳をしている。
その最たるものが第一長編の書名。原著名A Study in Scarletは一般的に「緋色の研究」と訳されている。(延原訳がそうだった)こちらの版では「緋色の習作」と翻訳されている。シャーロッキアンとしての研究の成果で「緋色の習作」の方がふさわしいらしい。(「研究」は誤訳と書いている)
第二長編は大多数の翻訳が「四つの署名」だが、これも原著名The Sign of FourでSignはSignatureではないことに注意が必要である。Signatureは文字通り署名(サイン)の意味だ。Signは動詞では署名するという意味になるが、名詞では兆しや符合、合図の意味である。厳密にいうと「四つの署名」はおかしいということになる。河出文庫版は「四つのサイン」と原題をそのまま訳している。
第三長編のThe hound of the Baskervilles「バスカヴィル家の犬」に関しては「バスカヴィル家の猟犬」の方が正しいという見解を持っているが、より普及している延原訳に沿った名前を採用している。(自分が子供の頃は「バスカービルの魔犬」というタイトルだったような気がするが…)

今回いろいろ集めてみたが、角川文庫版の旧版(鈴木幸夫訳)の破壊力がすごい。

IMG20220116221501 - Edited
なにしろ書名が「シァーロク・ホウムズの冒険」である。手元にあるのが昭和60年6月10日31版とのことで36年前に発行された文庫本である。(その時点で31版!)この頃でも十分に古い翻訳だったのではないだろうか。角川文庫の扉には不死鳥のマークがあるが、これは角川春樹時代のもの。(自分にとっては古い感じはしない)角川春樹が放逐された後、もとに戻った。
「ボヘミア国王の色沙汰」(「ボヘミアの醜聞」)のアイリーン・アドラーがアイリーニ・アドラア、ワトソンはウォトスンだ。(日暮雅通によると英国英語だとアイリーニが正しいそうだ。ただ本人の翻訳版=光文社文庫でもアイリーンと訳している。アドラー自身がアメリカ出身のため?)

冒頭の自分自身が向かっている方向について

普通に翻訳の違いを楽しむ方向で読んでいたが、だんだんそれに飽き足らなくなった。
その大きな要因が註釈の存在である。
文庫版の全集で註釈があるのは、光文社文庫、河出文庫、ちくま文庫で、左から順に註の量が増えていく。(右側に行くほど多い)
光文社文庫の註釈は訳者(日暮雅通)自身がつけたもので、最小限かつ的確なものだ。
たとえば「青いガーネット」の中にあるcommissionaire(コミッショネア)という単語に関して、延原訳と石田訳は守衛、鈴木訳ではメッセンジャー、日暮訳では便利屋と訳されている。光文社文庫の註釈は簡潔に説明している。曰く退役軍人を組織したもので文書の配達や警備など依頼された仕事をする。この職種の人物は他の短編にも登場しているが、ポイントは彼らが警官(もしくは郵便配達人)によく似た制服を着ていることだ。(「青いガーネット」では彼の姿をみて警察と勘違いして、暴漢たちが証拠品を残して逃亡する)
どの翻訳でも間違いではないと思うが、いろいろな仕事をするという意味で便利屋というのが一番正確だ。ただ、字面で便利屋と書くとややイメージが変わってしまうので、コミッショネアとルビをふった上、註釈で解説を加えていると思われる。(ちなみにコンプリートシャーロックホームズでは「退役軍人で、今は守衛やポーターなどの仕事をしている」と説明定な表現になっている)ちなみに「青いガーネット」の注釈の数は7個で1ページ程度の文字数である。

河出文庫のものはオックスフォード版の註釈を翻訳したもので前述のように文庫版で大幅に削られている。今回、単行本を図書館で借りることができたので、比較してみた。
第一長編の「緋色の習作」
単行本の注釈の数は385(!)である。これはちくま文庫版の184の倍以上という数である。単行本のほぼ半分は注釈というヴォリュームであった。ちなみに文庫版はわずか68である。しかも項目の内容も相当に減らされている。
IMG20220116215355 - Edited
文庫版では3番目の「マイワンドの激戦」の項目(左端)は単行本では12番目。これはまだ本文2ページ目だがそれほど飛ばされている。(1ページの間に8項目カットされている)
「マイワンドの激戦」の説明文は文庫版は日付(1行)のみだが、単行本はほぼ1ページ使って、戦いの内容、戦死者の数など詳細に記述している。
これはもはや同じ注釈とは言えないのではないだろうか。
せっかく翻訳出版したものを文庫化する際にここまで削る意味が分からない。一応翻訳者の「文庫版によせて」という文章の中に削った理由が書いてはあるが…曰く「・・・今回は中・高生の方々にも気軽に親しんでいただきたいと考えて、註釈部分は簡略化して、さらに解説につきまして若干短くまとめたものを再録することにしました・・・」とある。
解説についても読んでみたが、文章の中ほどで数行にわたって削除されるというような「まとめ」方でこれは著者(オーウェン・ダドリーエドワーズ)に対して失礼なのではないだろうか。これで単行本が出版され続ければ問題は無いが、文庫版が出た時点で絶版になっている模様。現在は文庫版しか読めない状況である。(だから単行本がプレミア価格になる)

つづく